強靭なバネと、バランス感覚。
その上で、こちらの動きを的確に読んでくるから、態勢が崩れない。
息き着く暇もなく、追い詰められる。

勢い余って、ガッ!と床に叩きつけられたのは、開始の礼を交わした10秒後の事だった。

乱菊はぎりぎりのところで、受身を取り、衝撃をそらす。
立ち上がりのカウンターとは、いかにも彼が好みそうな手だ。
にもかかわらず、他愛もなく引っ掛けられた自分が、ひどく腹立たしい。

「一本♪」

歌うように言った彼が、木刀を引こうとした、その一瞬の隙をついて、乱菊は、素手のまま、その懐へ一歩足を踏み出す。

ルールを品行方正に守っているだけでは、この相手に一生かなわない。

身を滑らせるように、打撃を受け流す彼に、躊躇いなく肉薄し、下から突き上げる形で、拳を放った。

これは、フェイク。

かわされても、構わない。
狙いは、体重を軸足に寄せること。

人は、後ろに押されたとき、得てして、無意識のうちに態勢を立て直そうと、前屈みになるものだ。
その反動を利用して、投げ技を仕掛ける。

襟首をつかんで、吊り上げようとした瞬間、視界の端で、ギンのニヤリと笑んだ口もとが見えた気がした。

「なりふり構わんのやったら、これくらいせな、あかんで。」


ガッッッ!!!
思い切り、脛を踏み抜かれ、骨のきしむ鈍い音が頭に響く。

衝撃に耐え切れなかった膝が落ち、乱菊は前のめりに、大きく態勢を崩した。

(ここで倒れたら終りだ。)

残る片足で踏みとどまり、至近距離からの当身を喰らわす。

ドガッッッ!!!

衝撃が来たのは、死角となった頭上から。
首をわしずかむように、地面へとたたき伏せられ、肋骨に圧迫された肺が悲鳴を上げる。



「、、なして、、急所狙ってこんのかなあ、、キミ、アホと違うか?」

「、、余計なお世話よ。」


痛みをこらえて反撃しようにも、すでに、肘を固められ、身動きが取れない。
いっそ、利き手を犠牲にしようか、と、思った時、
パッと、拘束していた腕が放された。

ゆっくりと離れる気配と供に、耳元で、カランと、鈴が乾いた音をたてる。

「痛っ!!」

身動きをすると、足に激痛が走り、まるで痺れたかのように動かない。

「すまん、、やりすぎやったかな?」

「なんてこと、ないわ。」

この程度で、ねをあげてるようでは、格好がつかない。
とは言っても、抱え込んだ右足の芯から響いてくる痛みに、思わず涙が滲んだ。

思うようにならないからだをゆっくり起すと、足の先、指の間接や、足首は、どうにか動かすことができる。
これなら、骨まではやられていないだろう。
そう踏んで、ほっと息をつく。
ふと、すぐ横を見ると、屈みこんでいるギンが、なにやら、乱菊の知らない術を、低く呟いていた。
ポンッと手のひらを打ち合わせたかと思うと、オオアザのできているであろう、足元にそっと掌をあてがってくる。

神妙な顔をしているのが、なんだかおかしい。

そう、思ったときに、患部が少し、暖かくなった。

「治癒能力なんて、使えたの?」

「門前の小僧、習わぬ経を読むってトコやな。」

「フーン。じゃあ、こないだひっかけてた四番隊のコとは、うまくいったわけ?」

「ハハ、さーてなァ。」

本人は付け焼刃だと言うが、市丸の使う技術は、素人目にも、かなりのレベルだと分かる。
もとより、四番隊のお家芸ともいえる高度な治療技術は、その体系を意識的に学ばなければ、身に付くものではないのだ。

彼が、副官に就任してまもなく、現世に派遣された市丸の一隊が、ほぼ全壊して敗走する事件があった。
出くわしたのは、事前情報とまったく規模の異なる、虚の一群。
対応能力を著しく上回っているとはいえ、もとより、霊力が強く、頭の良い虚ほど、出現可能性を予測することは難しい。
そういった事態に備えて、緊急の出動要請への対応は整えられているはずだった。
通常であれば、副官の率いる一隊は、救援要請の後、周囲へ被害が及ばぬよう持ちこたえるのに、十分な戦力を有している。それが、撤退すらおぼつかずに、大損害を出したのは、非常に綿密な管理がなされているはずのレスポンス機能が、そのときに限って作動しなかったためだ。事前予測が困難であるがゆえに、戦場のライフラインとして十三隊の機構の中で、高い信頼度を誇る部門が、働かなかったことは、表向きの責任問題を越えて、瀞霊廷というコップの中に、穏やかなぬ嵐が吹き荒れていることを示す証でもあった。

隊員の半数を失った市丸本人も、生還時には、手足が皮一枚でつながっている状態だったと聞く。
それが、本当に事故だったのか、
それとも、誰ぞの意思が働いていたのか。

乱菊には確かめる術がなかったが、少なくとも、彼の治癒能力が、そういった事態を見越して、かなり以前から身に付けられたものであることは、間違いない。

『人が、政治にのめり込むのは、昔、自身が満たされなかった、寂しさや、不安を埋めようとするからだ。』

そんな事をいった、現世の学者は誰だったか。
初めて聞いたときには、ずいぶんと感傷的な解釈もあったものだと思ったが、自分を振り返ってみれば、めまぐるしく揺れ動く政争を、まるで彼岸の火事のように眺めている一方、その炎のさなかに壺中の天を垣間見て、手を差し伸べようとする気持ちが分からないわけでもない。

ただ、自らの身に跳ね返ってくるリスクを真っ向からかぶってでも手に入れたいと思うほど、無邪気にも、剛直にもなれる気がしないだけだった。

しかし、まるで平均台を目隠しして渉るようなスリルを楽しんでいるかのようなギンにも、何か埋めようとして埋めがたい溝があるのだろうか?
耳元に響く術式を唱える低い声は、依然として緩慢なリズムを刻んでいる。

彼の笑い声が低くなったのがはたしていつ頃だったかはすでに覚えていないが、少女のように小作りな顔立ちで、綺麗に微笑んでいた少年が、どこか皮肉で、真意の分からない笑みをその顔にはりつけるようになったのは、ちょうどその時分だったように思う。

はるか昔に抜かされるまで、拳ひとつ分下に見えていた横顔を、久々に近くに見ている事でなんとはなしに居心地が悪くなった。思わず身じろぎをすると、着物の袂がすれてくくりつけられていた鈴から リンッ と高い澄んだ音が初めて響く。

解けかけている結び目が気になって差し伸べた掌へ、銀色に鈍く光るそれは、存外簡単にポロリと落ちた。






→次項